インドネシアのヒジャブ事情。

インドネシア
スポンサーリンク

突然ですが、『ヒジャブ(hijab)』って何かわかりますか?

ヒジャブとは、イスラム教の女性が髪を隠すためのヴェールのことです。インドネシア語では『ジルバブ(jilbab)』、あるいは『クルドゥン(kerudung)』とも言いますが、インドネシア人の友人によると、『ヒジャブ』の方がおしゃれな響きだそうで、現在はヒジャブと言う人の方が多いです。日本人が『机』を『デスク』と呼ぶのと同じですね。

 

ちなみに、小さなモスクで男性と女性のお祈りのスペースが壁などで分けられていない場合に、カーテンのようなもので仕切りを作るのですが、これもヒジャブと呼ばれます。アラビア語でヒジャブとは、『覆うもの』という意味だそうです。

 

 

View this post on Instagram

 

A post shared by Dian Pelangi (@dianpelangi) on

△インドネシアの今日のファッショナブルなヒジャブを流行らせたと言われているのが、Dian Pelangiというデザイナー/インフルエンサー。

 

ヒジャブの話への私の興味は、初めてインドネシアで留学生として長期滞在し始めたときから始まりました。そしてなぜこの話を今書こうと思ったかというと、当時から今に至るまで仲良くしてくれている3人の同じ世代のムスリムの女の子のヒジャブスタイルの変遷を見たからです。

彼女たちと知り合った当時から、私は彼女たちにヒジャブについて質問をたくさんしていました。彼女らは嫌がることなく、こちらに負けずとたくさんの話をしてくれました。その当時、彼女らが結論として言ったのは『ヒジャブはちゃんとしたムスリムになったときに着るべきだ』ということ。

その当時から約5年経ち、私たちを取り巻く環境も変わりました。当時大学生だった私たちも、全員卒業して、今はそれぞれ別の場所で別々のことをやっています。そして彼女らのスタイルにも変化が出てきました。

スポンサーリンク

例1:ヒジャブを身に着け始めた子。

出会った当初の彼女は、ヒジャブを身に着けたところを見たことはほぼありませんでした。唯一見たことがあるのは、ラマダン後のレバラン休暇で彼女が帰省したときの写真のみです。

その彼女は、今では毎日ヒジャブをしています。ヒジャブを付け始めたのね、と私が言ったところ、彼女曰く、『私はいま、全く新しい私なの!』と。がんばってJodoh(インドネシア語で『運命の人』というような意味)を探しています。

彼女も知り合った当時から、『ヒジャブを被るのは、自分が本当に準備ができたとき』と言っていました。きっと彼女は自分の心の中から準備ができたのでしょう。誇らしげにヒジャブを被っている彼女を見ると、時間が経ったんだなあとしんみりします。

 

例2:ヒジャブを被らなくなった子。

二人目の子は、出会った当初はヒジャブを被っていました。大体どこに行っても、以前日本に来てくれたときにも、ヒジャブを被っていました。私の実家にも泊まってもらいましたが、私の部屋から出るときにはヒジャブを付けていました。人のいないビーチでは外していました。

一度この話の3人の子たち全員と一緒に会ったときは、上の例1の子がヒジャブを被り始めたばかりだったので、『ああ、このままきっとみんなヒジャブを被るようになっていくのかな』、と思っていたので、その直後にこの例2の彼女が逆にヒジャブを被らなくなったのは、私にとっては驚きでした。

なぜヒジャブを被らなくなったか

元々ヒジャブを被り始めたのは親の意思だったそうです。彼女の家は両親とも教師で、お父さんの方が学校の中でも位の高い人でした。彼女の出身の町に行けば、彼女のお父さんが昔教えた人々がたくさんいます。つまり、彼女の評判はお父さんの評判に直結するということです。

そんな中で彼女にヒジャブを被らないという選択肢はなかったそうです。中学くらいのときから被り始めて、違和感は感じつつ、ずっと被っていたものを取ることに対する不安があったそうです。彼女のヒジャブに対する違和感とは『まだ完全なムスリムになる準備ができていないのに』ということです。

彼女は出身の町を離れ、彼女の両親を知っている人のいない町にいます。そしてそこでたくさんの人とかかわり、ヒジャブを取ることにしたそうです。

 

ヒジャブを取ってからの周りの反応

彼女がヒジャブを取ったことは、一時私の周りではかなりのセンセーションでした。私が彼女と仲が良いことを知っている人たちは、私にも彼女がヒジャブを取った理由を聞いてきました。

私は一貫して『知らない~』と胡麻化していました。ムスリムはゴシップが好まれないので、『知らない』と言えばそれ以上何も言えないのですが、それにしても私と仲の良い人も少し見下したような、あきれたような言い方で聞いてきたので、『感じが悪いな』、と感じたことを覚えています。

また、その彼女が印象的なエピソードを話してくれました。彼女がヒジャブなしでビーチに行ったとき、たまたま知り合いに会ったそうです。その友達はヒジャブを被っていたものの、手に飲みかけのビンタンビールのビンを握っていたそうです。

そしてそのヒジャブを被った子が、私の友達を見つけると、異常な大声で『あれ~、ヒジャブはどうしたの?外国人とばかり関わっているから、変な影響を受けたんでしょ~』などと周りに聞こえるように、私の友達に話しかけたそうです。

私の友達は負けじと、『あれ~、それビンタンじゃない?ヒジャブ被ってアルコールを飲むようになったの?』と言い返したところ、その子は『しー!』と焦ったように止めたそうです。

私の友達はそのことに憤慨して、『ヒジャブを取るのと、ヒジャブを被って公共の場でアルコールを飲むの、どっちが悪いの!』と怒っていましたが、本当にその通りだと思います。ヒジャブを被っている以上、やはり良くも悪くもイスラム教徒としての側面を出した格好でアルコールを飲む方がよっぽど他のイスラム教徒にとって、悪いイメージだと思うのです。ちょうど、海外で日本人だとわかるようにしていながらマナーの悪いことをする日本人に嫌なことを言われたときの私の記憶がかぶって、彼女がどれだけびっくりして嫌な気持ちになっただっただろうと思いました。

 

例3:ヒジャブを一環して被らない子。

彼女もムスリムです。彼女のお母さんも妹もヒジャブを被っていますが、彼女は被っていません。

彼女は男性・女性問わずアイドルが大好きで、AKB48などの日本のアイドルや芸能情報にも私よりよっぽど詳しいのです。その影響か彼女のファッションはおしゃれな日本人か韓国人を感じさせ、ひざ丈のスカートなんかも履いていたので、出会った当時は彼女がムスリムだとは思わなかったくらいです。

しかし彼女と仲良くしていると、この3人の友達の中で一番自分の宗教のことに詳しいのは、この例3の子のような気がするのです(完全な主観ではありますが)。豚肉もアルコールも絶対取りません。インドネシアではもちろん、日本に旅行に来ても、できる限りお祈りをする子です。私はこの子がヒジャブを被らないのは、とてもまじめで心配性な子だからだと思うのです。

彼女はヒジャブを被り始めるのが怖い、と言います。『ヒジャブを被り始めれば、自分はムスリムとして完全でなくてはいけない、いろんな宗教的な目が私に今以上に向けられる。今でさえ、ヒジャブを被らないことに対して親戚や周りからごちゃごちゃ言われるけれど、きっとそれ以上だと思う

『ヒジャブを被り始めた後に、過去の自分の写真をインスタグラムやFacebookなんかのSNSに投稿したら、「Kemana hijabnya?(ヒジャブはどこにやったの?)」というコメントが絶対に来るだろう。でも私は将来自分がどういう生き方をしても、過去の自分も受け入れるのに、そういうことを言われるのも面倒くさい』とも言っていました。

いつか彼女もヒジャブを被るときがくるかも、こないかもわかりませんが、彼女はそれまでに準備をしつつ、自分が好きなファッションも楽しむと言っています。中途半端なことをやりたくないという、彼女の真面目さが見えます。

 

まとめ

インドネシアに初めて行ったときは、私はまだとても不勉強で、女性はファッションでムスリムかムスリムじゃないかを見分けられると思っていました。しかし、多くのインドネシア人と関わっていくうちに、それぞれの宗教に対する考え方は個人で結構差があるということに気づきました。わかっているようでいて、今でも『ああ、この人はこんな宗教的考え方をしているんだ!』って驚くこともあります。

インドネシアに行く外国人女性の中には、ヒジャブを被ってインドネシアに来たために、ヒジャブをとるタイミングをなくしてしまう人もたまにいますが、本物のムスリムのためにも自分のためにも、相当の覚悟がなければ、日常生活でヒジャブを被ることを始めるのは難しいことだと感じます。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました